狭山事件とは

 1963年5月23日石川一雄さん逮捕される。

 1963年5月1日、埼玉県狭山市でおきた女子高校生誘拐殺人事件の犯人とされた石川一雄さんは事件から半世紀以上経過した今も無実を訴え続けています。

 事件当時、警察は被差別部落に見込み捜査をおこない、石川さんを別件逮捕し、兄の六造さんが犯人であるかのように思い込ませ、石川さんは兄の代わりにウソの「自白」をしてしまいます。証拠物には石川さんの指紋がひとつも検出されず、矛盾点が多く、石川さんが犯人でないことは明らかです。



狭山事件の概要

 1963年5月1日、埼玉県狭山市で女子高校生が学校帰りに行方不明となり、その夜、身代金を要求する脅迫状が届けられました。5月3日、警察は40人の警官を張り込ませながら身代金を受け取りにきた犯人を取り逃がし、翌4日、女子高校生の遺体が発見され、警察は世論の大きな批判を浴びました。

 

 3月におきた幼児誘拐殺人事件に続いての大失態をおかした警察に世論の避難が沸騰し、国会で追及されるまでになりました。

 国家公安委員長は異例の記者会見を行い、あて字だらけの脅迫状から「犯人は知能程度が低く、土地の事情に詳しいものである」とのべています。

 



 5月23日早朝、石川一雄さんが別件逮捕されました。作業着を借りて返さなかったことが窃盗にあたり、喧嘩したことが暴行にあたるという理由でした。

 逮捕後、何の証拠もえられなかった警察は石川さんを保釈し狭山署を出る直前に再逮捕するという悪らつな行為にでました。

 弁護人など外部との接触を一切断ち、兄の六造さんが犯人であるかのような取調官の言葉に乗せられ、ウソの「自白」をしてしまいます。その後、架空の「自白」を積み重ね、犯人として起訴されました。



 上の画像は事件当時の石川さん宅です。
 石川さんは部落差別によって教育を受ける権利を奪われ、小学校へ満足に通うことができませんでした。逮捕当時は文字を書くことが日常生活の中でほとんどありませんでした。

 被差別部落に集中的な見込み捜査がおこなわれ、逮捕された石川さん。
 当時の新聞には石川さんが住んでいた地域を「特殊部落」とよび、犯罪の温床であるかのように報道されるなど、根拠もなく石川さんを犯人と決めつけ、部落に対する偏見、差別意識をあおるものも多くありました。石川さんが暮らす町会長名で新聞社に抗議を行うほどひどい内容のものでした。



 1審はわずか半年の裁判で翌年1964年3月に死刑判決が言い渡されました。石川さんは東京拘置所で他のえん罪死刑囚と話すなかで警察にだまされたことに気づき、2審の第1回公判で「俺は殺していない」と無実を訴えました。

 2審では石川さんの無実を示す証拠が次々と弁護団から明らかにされ、誰もが無罪判決が出されるものと思っていました。しかし、1974年10月31日、現場検証や証人尋問を行うことなく、寺尾正二裁判長は無期懲役の判決を出し、1977年に最高裁は事実審理を行うことなく、上告を却下。判決が確定し、石川さんは千葉刑務所で受刑生活を強いられることになります。

 

 弁護団はただちに再審請求を行いましたが1980年に棄却。その後の異議申し立て、特別抗告も棄却されました。その後、1986年に第2次再審を申し立て、筆跡鑑定や元刑事の証言など数々の新証拠を提出しましたが、1999年東京高裁は再び棄却を決定。第2次再審は13年間の長期にわたりましたが、ただの一度も事実調べは行われませんでした。

 弁護団は2006年に第3次再審を請求。数々の新証拠や100万筆を超える署名などが提出されるなかで2009年6月、門野博裁判長が裁判所、検察官、弁護団による3者協議の開催を決定。検察は当初は証拠開示をかたくなに拒否していましたが、同年12月裁判長が検察側に証拠開示を勧告。以来、現在(2017年5月)までに187点に及ぶ証拠が開示されてきました。しかし、肝心の殺害現場をめぐる証拠などは「不見当」(見当たらない)などとしていまだ開示されていません。

 

 



 石川さんの両親は、子どもの無実を信じ石川さんの帰りを心待ちにしていました。石川さんは第2次再審請求中の1994年12月に仮出獄。31年7ヶ月ぶりに故郷の土を踏みましたが、そのときには両親はすでに亡くなっていました。

 石川さんは「見えない手錠をかけられたままでは」と、無罪を勝ち取るまで両親の墓参りはしないとの決意で闘いを続けています。支援者であった早智子さんと1996年に結婚。以来二人三脚で全国を行脚し、無実を訴え続けています。

 




狭山事件年表

1963年5月1日       埼玉県狭山市で女性高校生が行方不明となり、自宅に20万円を要求する脅迫状が届く
5月2日 深夜、脅迫状で指定された身代金引き渡し場所「佐野屋」に現れた犯人を埼玉県警は取り逃がす
 5月4日 女子高生の死体発見
 5月23日

作業着を借りて返さなかった(窃盗)、喧嘩した(暴行)などの容疑で石川一雄さんを別件逮捕

 6月17日

石川さん保釈・直後に再逮捕

 6月18日 第2回目の家宅捜索
 6月26日 第3回目の家宅捜索で被害者の「万年筆」を発見
 1964年3月11日 第1審浦和地裁 死刑判決
1974年10月31日 第2審東京高裁 無期懲役判決
 1977年8月9日 最高裁異議申し立て棄却(無期懲役が確定)
 8月30日 第一次再審請求、その後異議申し立て、特別抗告とも棄却
 1986年8月21日 第二次再審請求
1994年12月21日 石川さん仮出獄。31年7ヶ月ぶりに狭山に帰る
 1999年7月8日 事実調べを一切おこなわないまま第2次再審を棄却
2000年5月22日 狭山事件の再審を求める有識者らが「朝日新聞」に「日本語の練習問題です」と題して意見広告(全面)をだす
 2005年2月13日 テレビ朝日「ザ・スクープ」が狭山事件を特集
 2006年5月23日 第3次再審請求
 2007年3月1日 市民の会が東京高裁に91万6256筆の署名を提出。5月23日とあわせて100万筆を越える
2008年10月15日 国連(スイス・ジュネーブ)で自由権規約委員に無実と証拠開示を訴える
 2009年5月21日 はじめて弁護団、裁判所、検察による三者協議がひらかれる。
 9月10日 第2回三者協議で、門野裁判長が証拠開示を勧告
 2010年5月13日 テレビ朝日「報道発ドキュメンタリー宣言」が狭山事件を特集
2013年10月30日 映画「SAYAMAみえない手錠をはずすまで」完成
 2017年5月10日 第32回三者協議。これまでに187点の証拠が開示され、弁護団は191点の新証拠を提出